〜旧釧北峠に登る〜 K・H (埼玉県在住 某女子大生)
2006年1月9日〜10日 阿寒取材旅行レポート
前年の旧釧北峠行



  ●1月9日(月) 最低気温−25.3℃ 最高気温−6.4℃ 平均気温−18.5℃
  札幌駅より、帯広経由で阿寒湖へ
  どのルートが一番安いか、それだけに注目してプランニングした貧乏旅行なので、札幌から阿寒まで7時間を要
した。道東は交通が発達していないのだ。
  物語のメインというべき、今では旧道となってしまった峠に登る。純子が昭和27年1月23日に果てた旧釧北峠。
ここに行くのが最大の目的だ。10月ころから準備をしていた。阿寒観光協会の方にも「スキー初心者が一人で行く
のは危険です。やめてください」、と止められた。けれど、諦める気はもちろんなかったので、どうにか行けないかと考
えた。その時、ネットで北見市(阿寒湖畔から車で2時間程)の登山愛好家の方を見つけた。

  彼は登山日記をHP上で公開しているのだ。たまたま旧釧北峠を通って阿寒のヤブ山へ登った日の日記が私の検
索にヒットしたのである。その方に「どうしても峠に行きたい。そこに行かないと私の中で一生、小説は完結しない」・・
などとしつこく説明したので、無事に熱意が伝わって「それなら!」と峠までの案内役を引き受けて下さった。そのお
方、Yさんは主夫≠しており、その傍ら趣味の登山を楽しみながら夏には登山用のペンション管理などをしてい
る。54歳の素敵なおじ様である。

●1月10日(火) 最低気温−25.4℃ 最高気温−6.1℃ 平均気温−17.2℃
  ホテルロビーに9時30分に待ち合わせ。北見市に住むYさんは、阿寒まで車で2時間弱の道のりをやって来て下
さった。
  Yさんは山仲間の方に私のために山スキーと靴を借りて準備して下さったのだ。阿寒に来る前にも、山での注意
やアドバイスをメールで何度も教えてくれた。お会いして挨拶を済ませ、すぐに靴を合わせた。スキー経験ゼロに近
い私は靴を履くのもままならない。これまた、準備して下さっていた2万5千分の1の地図で私にこれからのルートを
説明してくれる。
  車に乗るとYさんの相棒、愛犬エルが迎えてくれた。美しい毛並みでものすごく人懐こいエル。HPの写真で愛く
るしいその表情を見ていたが、本物を見てとても感激した!つい「本物だぁ!!」と口走る・・。

  峠の入り口までホテルから車で5分。見上げるとそこには真っ白の中に真っ直ぐ続く送電線が。「あそこまで行く
んだ・・・」緊張というより興奮していたと思う。スキーを履き、道路で歩きながら軽い練習をして、いざ峠へ!!

  Yさんが歩いた後を私が行く。誰も通ることのないその道は本当に雪が深く、初めに足を踏み入れるのは容易で
はない。しかし、さすがにYさんである!!スイスイ進むその姿は年齢を感じさせない。着慣れないウェアにスキーで
身動きが制限され、苦戦する私はただ頑張るのみ!!まだカメラを回す余裕はゼロだ。Yさんが瞬間を逃さないよう
に、と私のビデオカメラを手に持ち進んでくれた。
  スキーには滑り止めのシールが張ってあるので、斜面でも後退することはないので安全だ。にしてもストックを
使いこなせずジタバタ。よくこけた。雪焼けも念頭に入れて日焼け止めを多く塗った。

  徐々に汗が出始めた頃、少し周囲を見られるくらいになった。天気がものすごくよくて、光が雪に反射し眩しい。
けれどゴーグルをするのがもったいないくらいに美しい景色。私は迷わずゴーグルを外す。すべてを何も通さずにこ
の目で見たかったのだ。
  それらの装備もまったく知らず、私はカンジキさえあれば登れる!と思っていた。そんな安易な自分が恥ずかしく
なった。そして同時に、そんな私に完璧な装備を提供して下さったYさんの温かさを感じ、涙が出そうになった。

  手汗でグショグショになった手袋はもう必要なかった。ジグザグに登っていくので、たまに見せる阿寒湖の姿がい
とおしくて疲れなど感じている暇はなかった。
  冬の冷え冷えしたこの空気の中に、ひっそりと、でも力強く根を張る木々に遮られて、歩いてきた道はほとんど見
えなかった。
  
峠に向かって送電線が一直線に延びる(左)  旧釧北峠付近で(右)
 
 登り始めて2時間。とうとう私は頂上に達した。そこには、音も風も一切存在しなかった。ただ、光と雪の世界。緑
は美しく、溶けることを知らないような雪をかぶっていた。どうしようもなく胸が詰まる。純子がここで果てたのだと思
うと・・・言葉にならない。
  旧釧北峠の看板は既になく、雪は何にも汚されることなく積もって深かった。誰も訪れることのない、聖域のよう
な場所に来てしまった。本当に来てしまった。まさか、本当に来てしまうとは。

  (Yさんに聞く)
  『なぜ、18歳の少女がこの場所を選んだのでしょう?』
  『・・・・・・それは彼女だけが知っている・・・ということかな・・』
  私がリュックに入れていた小説を手渡すとじっくり見詰めるYさん。

  ここにいられる時間は限られている。冬は気温が下がるのが早いので、夕方になってしまうと危ないのだ。いつ
までもここに居たいと思った。無音、無風の世界は悲しみも苦しみも忘れられるような気がした。自分の足でここに
来ることができたことに喜びを感じたし、純子にたどり着いたような錯覚を覚えた。

  下りは話ができる余裕もあり、Yさんと沢山の話をした。1時間ちょっとで下りられ、帰りにぜひお礼がしたかった
ので、湖畔にラーメンを食べに行った。私の卒論や将来の夢、彼の新聞記者時代の話、息子さんの話・・すごく貴重
な体験だった。人を知っていくことの楽しさを改めて感じた。
(了)
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小説「阿寒に果つ」   渡辺 淳一著

  渡辺淳一さんの自伝的小説。主人公・純子は18歳の高校生。天才少女画家として華々しく画壇にデビュー。絵
画制作に励む一方で同級生、年の離れた画家、新聞記者、医師、カメラマン等と逢瀬を重ねる早熟の女性だった。
捉えどころのない生き方は男たちを惑わし、そして天才少女画家の顔のまま雪深い阿寒で果ててしまう。
  札幌南高校3年の加清純子がそのモデル。同級生だったのが著者の渡辺淳一で、小悪魔的な純子に振り回さ
れた男の一人として小説中「田辺俊一」の名で登場する。
  実在した加清純子は昭和27年1月23日阿寒山中で自殺、同年4月旧釧北峠で凍死体で発見される。

  女子大生K・Hさんと小説「阿寒に果つ」の出会いは小学生の時。1996年夏、テレビ放送されたドキュメンタリー
『加清純子遺作画集 わがいのち「阿寒に果つ」とも』(北海道放送制作)・・をたまたま目にした。「あまり理解できな
かったが、若くして自殺したという内容が衝撃的・・」で、彼女の名とともに強く記憶に残った。その後、高校生になっ
て渡辺淳一原作のあるテレビドラマがきっかけで、同氏の作品を調べているうちに「阿寒に果つ」を初めて手にする。
幼い頃視たあのドキュメンタリーの主人公と同じ名前。「実話だったという二重の驚き」に、「私と純子は出会うべくし
て出会った、そんな感情さえ抱かせた」・・・ということになる。「彼女についてすべてを知りたい。あの小説の世界を
卒論のテーマにしたい」と。
  私はまさしく純子に恋をした。鮮やか過ぎる死に嫉妬した。純子の姿に自分を重ね、共通点を探した。しかし純子には
到底適わない。
  彼女はなぜ死んだのか?いつしか死んだ理由を探すよりも、彼女の生きた跡をたどることに夢中になっていた。唯一の
救いは色褪せたとしても彼女の作品が残り、50年前、純子が存在し必死で生きていたことを伝えているということだ。こん
なにも純子が死を予感させるものを残しているにも係らず私は未だ偶然の死だということを信じている。真冬の峠でギリギ
リの所に立っている絶頂感に魅せられ、瞬間の衝動に駆られた・・そう思いたい私の願望であると言われても仕方がない。
(中略)
  ・・・あらゆる謎を残し、私達のどこかに純子は生き続ける。すべてこれも計算された彼女の演出なのか。しかし、きっ
と誰よりも本人が納得した死を、自分で演出して逝ってしまった。彼女は生きては手に入らない、多くの人間の心を手に入
れたのである。彼女の逝き方と生き方。死後50年以上経ってもなお、欲張りな純子は人々の心をさらっていく。彼女は死を
もって、「天才少女画家・純子」を初めて手に入れたのである。

卒論の最後をこう結んでいる。


  卒論は全66ページ、純子の足跡を追ったDVDのイメージ画像も付録とした力作である。
  彼女が「どうしても峠に行きたいんです」・・と私に寄せた思いが卒論を読んでようやく納得できたのである。驚い
たのは彼女のその行動力である。恐らくバイトで貯めたであろう旅費で、北海道を度々行き来し、雪深い極寒の阿寒
まで取材に来るとは・・。原作者の渡辺淳一氏にまで突撃インタビューを試みている。魅せられた=E・といっても、
なかなかここまでは出来ないものである。
  その行動力は、遥かな高みを目指して山に入っていた私の若い時を思い出させてくれる。

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